スイスの「ラントヴァッサー高架橋(註:1)」は世界的に名を馳せる人気の撮影スポットだ。旅好きな私もこの橋が見えて来るたびに、かならずシャッターを押してきた。
けれど、まともな写真が撮れたためしがなかったのだ。旧式の山岳列車だった当時は窓を開けることも出来たので、車窓からの風景を撮るには好都合だったのだが、うまくいかなかった。
問題は山岳を走る列車の揺れだ。タイミングを捉えるのが下手くそだった私は、右に左に揺れながら走る列車に翻弄され続けた。ここぞと息をのんでシャッターを切っても大ボケ小ボケの出来になり、もう一枚!と構えた時には時すでに遅し、列車はたいていトンネルに、もう呑み込まれていた。
乗っている列車からその列車を撮るには最後尾でデジカメを構えるのが常識なのは承知していても、「撮り鉄」未満の私は、よろめきながらそこまで移動する勇気にも気合にも欠けていた。
だが、あの日は違った。ラントヴァッサー橋が見えて来る20分ほど前には、勇気が宿っている(であろう)頭の釜戸に火をつけ、そして、心にキリリとハチマキをしめて座席を立った。
列車の揺れにバランスを失って足がもつれることも何度かあったが、それでも勇気の炎と心のハチマキに助けられ、どうにか最後尾の車両を出るドアの前まで辿り着けた。重い手動のドアも難なく開けることができた‥‥まではよかったのだが、ガクッ!
そこにはニコンの一眼を首にかけた先客が、降ろした窓ガラスの上部のふちに両腕を乗せて待機していたのである。鉄道写真マニアとおぼしき若い男性だ。
心の裏側では泣きべそをかきながらも思いっきりフレンドリーな音色で「グリュエッツィー(スイスドイツ語で「こんにちは」)」と声をかけてみた。彼もすぐに爽やかな笑顔で挨拶を返してくれた。そのイントネーションから私には彼がスイス人であることがすぐに分かった。
しかし、いくらなんでも無理だ。旧式の列車は出入り口がこぢんまりしていたので、窓から2人が肩を並べて撮るにはあまりにも狭すぎた。
「すてきな写真が撮れるといいですね」、そう言って私は踵を返そうとした。
「あっ、待ってください。ここで撮っていいですよ」
私に撮影場所を譲ってくれるというのだ。予期せぬ青年のこの申し出に私はドキドキした。
「あなたの優しさに感謝します。有難う! でも、あなただって撮りたくてこの列車に乗ったんでしょ?」
1時間に1本しかないローカル列車だ。「当然、あなたに優先権があります。私は自分の席の窓から撮りますので、ご心配なく」
そう遠慮する私に、彼は尚も譲ろうとする。
「私は地元の人間なんです。だから今回はあなたがこの場所を使っていいですよ」
何て寛大な人だろう。いくら地元の人とはいえ、もし仮に私が彼だったら同じ言葉をかけることができただろうか? いや~、ノーかも知れない。だとすると、私はこの申し出を受けるに値する人間とは言えないんじゃないか? 折角の親切だけど、やっぱり断ろう。私はそう覚悟を決めた‥‥はずだった。ところがそのとき私の口を突いて出たのは真逆のセリフだったのだ。
「有難うございます!それじゃ今回は喜んであなたのご親切をお受けすることにしますね」
これには私自身が意表を突かれてしまった。が、もうモタモタしている時間はない。橋が見えてきた。揺れに負けまいと下腹と両足に思いっきり力を入れる。そして、熱を込め息を止めて私はシャッターを押した。続けてまた押した。
トンネルに入ってから彼にその2枚の写真を見せると、とても喜んでくれた。
「巧く撮れたじゃないですか。よかったですね」
そう言いながら彼は私に笑顔をおくってくれた。
心に夢と希望を持っている若者の笑顔だった。
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【註1】「ラントヴァッサー鉄道高架橋(Landwasser Viaduct)」に付いて
レーティッシュ鉄道のアルブラ線とベル二ナ線が通る路線にかかる石灰岩でできた気品のある高架橋。高さは65m。世界一遅い「氷河特急」もこの橋を通る。
この区域には55もの石の橋がかかっているという。その中でもこのラントヴァッサー峡谷の建造は困難を極めたらしい。今から117年前に完成。
スイスの山岳地帯特有の美しい風景も含めて、この区域は2008年にユネスコ世界遺産に登録された。